稲川通信一覧

稲川通信一覧2023-05-07T11:21:12+09:00

稲川通信について

「稲川通信」の著者である稲川明雄前館長は、令和元年12月12日に逝去されました。【41宮路村の騒動】以降の「稲川通信」は、生前にいただいておりました原稿を掲載し、連載を続けます。原稿は、稲川前館長が最終校正をされる前のものですので、現在の考証とは異なっている箇所もあるかと思います。その点をなにとぞご承知のうえ、「稲川通信」をご覧いただければ幸いです。

稲川通信【43】登山好きの継之助

登山好きの継之助

長岡城下から東を望むと、東山連峰が美しい。とりわけ雪形を描く春の夕陽をあびるころ眺めると最高だ。継之助も幼少のころから眺めつつくらした。とくにひときわ高い鋸山に関心を示していたことが、旅日記『塵壺』に出てくる。すなわち安政六年(一八五九)六月十二日のくだりに「鋸山の木、すでに尽んとす」とあり、城下で使う炭や材木が乱伐で、樹木がなくなるというのである。

長岡藩は東山連峰の一部を、侍たちのための林としていた。薪炭をそこから自由に採り、燃料に供していたのである。
富士山を眺め、その麓に広がる広大な樹林を見て、故郷の鋸山を思ったというのである。鋸山は標高七六四メートル。東山連峰で一番高い山である。友人の鵜殿団次郎の実弟が白峰駿馬と改名したように、雪をいただく鋸山は秀峰であった。

ところで、河井継之助は富士山登山にすさまじい未練を残していることが『塵壺』からうかがうことができる。
旅の初日に「不二頂をあらはす」とあり、旅の途中、「見あきぬ迄にながめ居たり」と、継之助が立ち止まっては富士山を眺める姿が想像できる。
そして、登山道に向かい、登山に挑戦しようとするのだが、悪天候にはばまれ断念する。それが、よほど残念だったのか、「終身の誤りの一つ也」と記すのである。なぜ、富士山に執心だったのか、それを知りたいものだ。

(稲川明雄)

2022年1月31日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信42】西国遊学の志

西国遊学の志

安政六年(一八五九)四月二十四日付の両親宛の書簡に、旅費五十両の無心が記されていた。五十両といえば大金である。それを無心してでも、備中松山藩(岡山県高梁市)の藩儒山田方谷のもとに行きたいという。目的は松山藩の財政改革の実際を知りたいというのだ。
山田方谷は松山藩の執政。継之助の師であった高野松陰や佐久間象山とともに佐藤一斎門下の高足の一人であった。当時、幕閣に松山藩主五万石の板倉がいた。勝静は有終館学頭の山田方谷を執政に登用して、藩財政の改革にあたらせた結果、大成功をおさめたというころだった。
書簡の中に山本帯刀(勘右衛門のこと)と牧野市右衛門の両家老も、西国遊学をすすめているとある。これをみれば、息子が家老の意をうけ、藩政改革の術を学んでくれば、立身出世が望めると期待できるものであった
二人の家老から西国遊学を認められ、継之助は「登天の心地」であることを伝え、「天の与えるところ」であると感嘆している。
このことを、この書簡を持参し、帰郷する村松忠治右衛門に伝言した。
「不肖の私、父母にるの道をもまえず、恐懼の至りに候えども、せめて立身行道は孝の終りと申す、教えにても相守りたく、憤発仕り候」と、その決意を述べている。父母への孝行は、立身をし人の道を行うことだとする継之助の書簡に、一、二もなく代右衛門は非常用備えの五十両の大金を送金している。

(稲川明雄)

2020年10月3日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信41】宮路村の騒動

改革を推しすすめると当然、軋轢が生ずる。長岡藩でも十代藩主牧野忠雅の強力な改革案が安政年間に推しすすめられたが、農村では庄屋層と本百姓の間で騒動が起きた。
長岡藩北組宮路村は三十数戸の小村だが、もっとも典型的な騒動が起きていた。
継之助は、その騒動の対処を担当する外様吟味役に就いた。安政五年、三十二歳のときである。外様吟味役は無役の藩士の中から、有能な人材を選んで、難事の審判を行なう役目である。しかし、この宮路騒動は村民間の騒動としては根深く、何人もの外様吟味役が入っても解決できないでいた。
そもそも、この騒動は農村側が庄屋の搾取を北組代官所に訴え出たことからはじまっている。改革によって副業の推進がはかられたが、増収となると、その何割かを庄屋がピンハネしたというものであった。農民側は庄屋の不正を訴え出たが、庄屋は村役人として当然の権利だと主張した。庄屋の人望が薄かったことが、なおいっそう様相を複雑にした。
継之助は宮路村に約二十日間常駐し、庄屋・農民の双方を裁断した。そのとき、詠んだ漢詩がある。

古哲は片言にして大事を定む 二旬の勤苦も未だ全く安からず
鈍刀断たず徒らに物を傷く 磨琢誰か霜刃をして寒からしめん

宮路村の騒動での己れの非力さと体制の矛盾を嘆いている。このときの誰も救えない無念の思いが再度の遊学につながってゆく。

(稲川明雄)

2019年6月28日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信40】金華山などに登る

継之助は川島億次郎(三島億二郎)とともに東北を遊歴し、金華山にも登ったという。
それは継之助が三十歳の安政三年(一八五六)のころだといわれている。温海あつみ・石巻・仙台らを廻国したとあるが、藩主牧野忠雅が、しきりに藩士に奥羽・蝦夷えぞを探索させたが、その一環かもしれない。
旅日記『塵壺』からうかがうと、登山に挑戦しなければならないという性分だったようだ。富士山や大山だいせんを眺め、しきりに登山の機会をうかがうが、断念せざるをえず、無念の思いが伝わってくる記事がある。
金華山は信仰の山であり、とりわけ興味を持ったこともうかがえる。たとえば、西国遊学の途中、芸州宮島に立ち寄り、ふとみあげると弥山みやまがあり、そこへ登ったというのである。また、金華山に登る際は、案内人をたてるものだが、「あきれた覚えがあるゆえ」二人で登ったとある。たぶん、継之助の合理的思考が俗の信仰を排除したのかもしれない。

川島とまた連れだって越後魚沼の妻有郷つまりごうにも遊んだとあるから、よほど高山や峡谷に興味を持っていたことが察せられる。

(稲川明雄)

(※金華山は紺碧の海に浮かぶ霊島で野生の鹿や猿が生息しており、また金華山西側中腹には黄金山神社が鎮座している)

2019年1月20日|Categories: 稲川通信|

稲川通信39】雌伏の時代

JR長岡駅の東口から、しばらく北へ歩くと、日本互尊社の杜もりに行き着く。千六百余坪の森の中に、木造の社屋と、長岡空襲に遭った長岡市の中では一番古い鉄筋コンクリート造りの如是蔵博物館がある。日本互尊社は、実業家であり互尊思想を提唱した野本恭八郎(号・互尊翁)が創設した財産法人である。その発足前後の昭和十一年(一九三六)に互尊翁が歿したので、その後の運営は市民の有志によって支えられている。
 如是蔵は、仏教でいう知恵の蔵という意味であるから、野本恭八郎は、あらゆる文化財や人間の歴史に関する物品を集めようとした。とりわけ、野本は長岡の人物誌にこだわっていたから、二階は山本五十六いそろく元帥の遺品コーナーとなっている。

 野本恭八郎は嘉永五年(一八五二)生まれであるが、直接、河井継之助と面識はなかった。生れは幕府領の小国郷の出身である。その野本が長岡城下の渡里町の野本家に養子できたのは明治五年(一八七二)、二十一歳のときである。野本は生涯にわたって河井継之助を敬愛したという。その如是蔵博物館三階展示コーナーに、二幅の河井継之助の書が展示してある。いずれも王陽明の詩である。

険夷もと胸中に滞らず 何ぞ異らん浮雲の大空を過ぐるに 夜は静かなり海濤三万里 月明錫を飛ばして天風に下る

渓石何ぞ落々たる 渓水何ぞ冷々たる 石に坐して渓水を弄び 欣然として我が纓えいを濯う
渓水清くして 底見われ 我が白髪の生いたるを照す 年華は流水のごとく 一たび去って回停するなし 悠々たり百年の内 吾が道終に何をか成さん

 この二幅の詩は王陽明が三十六歳と三十七歳のときのもので、流謫るたくの地の新境地の開眼を示すものである。この詩を好んで書いた継之助の心をあらわすものとして必見の書である。

(稲川明雄)

2018年11月29日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信38】評定役随役に抜擢される

長岡藩の評定役は、藩政全般を協議する。その構成員は家老・中老・奉行、それに民政をあずかる宗門・町・群奉行が加わる。随役とは、そのはやくに特別に関わることをいう。長岡藩では重要な役目だ。  それに継之助は任命されて帰国した。国元では当惑した。まだ部屋住みの青二才が評定所に出勤してきて、発言を要求したのである。家老・大目付とも驚愕(きょうがく)した。
「その言ふ所、高尚に過ぎ、時勢にそばず(中略)人望に乏しく、反かえって人心を傷うの憂ひあり」という。たぶん、堂々と自らの改革案を提示し、江戸の情勢を説明したのだろう。  家老の山本勘右衛門、大目付の三間安右衛門らは早速、江戸へ飛脚を立て、藩主の牧野忠雅ただまさにうかがいをたてる一方、「斯る場合は藩主より、一応国家老に相談あるべき慣例だ」と主張し、河井継之助が登庁するのを拒んだという。しかし、継之助は意に介さず出勤したが、忠雅の返答が「継之助の性格はやはり駄目か、では、いたし方ない」ということで、ついに数旬を経ずして、排斥され無役となってしまった。
 十代藩主牧野忠雅は、河井継之助の才をめでて登用したが、それは結局、継之助の排斥につながってしまう。ただ、藩庁は継之助に四、五年の経験が必要だと答申もしているから、実力を知ることになれば登用もありとしたのだろう。その後、継之助は門閥制度を廃止する改革案を提出しているから、双方の確執が深まり、継之助が孤立化してゆくことになる。

(稲川明雄)

2018年11月5日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信37】寝食を忘れ李忠定公集を写す

王陽明が「天下の己れを信ずるを求めざるなり、自ら信ずるのみ、吾方に以て、自ら信ずるを求めて暇あらず、而して、人の己れを信ずるを求むに暇あらんや」と説いたというが、継之助は陽明学を学び、経世家を志すようになると、ますます強い克己心を発揮し出した。
それは、彼が嘉永六年(一八五三)六月にペリー来航に接してから、より強くなったと考えられる。残念ながら、継之助が佐久間象山・小林虎三郎・吉田松陰らとともに、浦賀沖のペリー艦隊を直接、見学に行ったという記録がない。象山塾生の一人であったという事実から、一行の中に含まれていたという憶測が伝わっているだけである。

ただ、この異国船騒ぎによって、継之助の運命が変わったことは確かである。彼は藩主牧野忠雅に建言をした。「その言、はなはだしく詭激きげきにわたれりといえども、この一事、はからずも忠雅の心を惹き、時局漸く困難ならんとする今日、以て用ふべきの器なり」と評価され、藩政関与の一歩を踏み出す。つまり牧野忠雅に、特命を帯び、評定役随役に任じられて、帰国することになる。

ときに経世家として一歩を踏み出した継之助は、陽明学により傾倒し、正義への確固たる信念をもやす。
『李忠定公集』全十二巻を筆写し、かつ歴代奏議類を勉学した継之助は、己れの運命をそこで悟る。長岡藩を改革するのは己れのみ、「小人にならず、大人になろう」と。

2018年5月18日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信36】 久敬舎時代

久敬舎時代

久敬舎に鈴木虎太郎という青年がいた。継之助が再度の遊学で久敬舎に入塾した安政六年ころは十六歳であったというから、少年に近かったのだろう。
虎太郎は後年、禅に凝って刈谷無穏と名乗って、僧のような生涯を送り、明治三十二年、三重県津市で歿した。その無穏が継之助の三十三歳のころの面影を語っている。

わしの席の隣りに、眼のギロッとして三十歳前後の人がいた。どうも様子の変った人だと思って名を訊いたところ、越後の河井継之助だといった。学問にはほとんど興味がないようであった。というよりは、自己流に興味のある特別の学問に熱中している風にみうけた。

継之助は、この虎太郎に作詩を頼んだり、読書について一家言を呈している。そのたびに虎太郎は驚いたり、あきれたりしている。いわば常識に捉われない変人のように映ったらしい。
おみしゃん、面白いだけで本を読むなら、芝居か寄席にでも行くがよい、と奇妙なことを言われたこともあった。あるとき、「吉原細見」をみせて、芸娼妓の名のところに◎〇×と印があるところを説明してくれた。
「英雄の鉄腸を溶かすものをためしているのさ」と、こともなげに言う継之助を、豪傑とは、こういうのをいうのかなと思ったと述懐している。吉原の小稲のところへ通ったのは、どうも、このころのことらしい。

※写真はイメージです、久敬舎ではありません。

2018年3月5日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信35】江戸遊学

嘉永五年(一八五二)春。継之助は待望の江戸遊学に旅立つ。妻のすがには「なに、川をひとつ渡り、山をひとつ越えれば江戸さ」と言い、すたすたと旅立っていったという。
遊学の宿志は、もとより己れの立身である。己れの人生を、この遊学にかけていた気配が濃厚である。二十六歳の遅い旅立ちだったが、一緒に同行した若い友たちがいた。同藩士永井慶弥(のちの立花逸造)らである。この立花らが、のちに河井継之助の人間像や藩政改革の実際を証言することになる。

継之助らの遊学は、藩庁の許可を得たとはいえ、全くの私費での旅行、三国街道を上のぼるにも気概は横溢おういつ、気楽なものであったという。

街道の途中、景色の良いところのくると、立ち止まって放吟したり、旅宿で酒を飲んで酌婦とたわむれたりして、壮士が青雲の志を抱くような華やかさがあった。この反対に公費で遊学の途についた友の小林虎三郎などは、悲愴ひそうな覚悟で三国峠を越えたという。

継之助は生涯、三、四度、三国峠を越えている。三国峠は、越後・信濃・上野の国境にあることから名付けられた。越後から下れば、そこはまさに異郷。新天地となるか、魔境となるかの境目にあたっていた。二度目の遊学は冬期だったから、信濃路を通って碓氷峠を越えた。文久と慶応に継之助は三国峠を越え、帰郷しているが、そのたびに歴史の天命というものを背負って帰ってきている。

(稲川明雄)

2017年12月5日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信34】妻すが

妻のすがは十六歳のとき、二十四歳の継之助のところに嫁いできた。嘉永三年(一八五〇)のことである。
すがは天保五年(一八三四)生まれであるから、継之助の七歳年下。長岡藩士椰野弥五左衛門の娘に生まれた。椰野家は世禄二百五十石(河井家の約二倍)で、代々、藩主の御用人を務める家柄である。すがの兄は嘉兵衛といい、継之助の良き理解者であり、継之助を支えた人物である。
嫁してきたころの継之助は尋常でなかった。写本に熱中して寝食を忘れたり、夜中に「呻吟語録」を朗々と謡うといったくらしをしていた。盆踊りの輪に入って長岡甚句を謡ったのも、このころであろう。
すがは、この奇妙な夫を不思議に思わなかったらしい。「お身しゃんは、この河井家の娘だと思うてくれ」という言葉を、夫のやさしさだと受け取って河井家でくらしていた。
すがのこのような人柄が、継之助を育てていった。
継之助とすがは仲睦まじかったとあるが、世間並みに派手な夫婦喧嘩もあったらしい。『北越名士伝』の「河井継之助」の項を執筆した松井広吉によれば、「夫人の髪を?んで引き摺り廻したことや、遊廓で乱暴したことなど」を記したが、「すべて故人のため、その非を諱むという筆法で抹殺した」とある。明治十八年(一八八五)六月の『北越名士伝』所収の河井継之助伝記は一番早い。

(稲川明雄)

2017年8月28日|Categories: 稲川通信|
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