稲川通信39】雌伏の時代

Published On: 2018年11月29日|Categories: 稲川通信|

JR長岡駅の東口から、しばらく北へ歩くと、日本互尊社の杜もりに行き着く。千六百余坪の森の中に、木造の社屋と、長岡空襲に遭った長岡市の中では一番古い鉄筋コンクリート造りの如是蔵博物館がある。日本互尊社は、実業家であり互尊思想を提唱した野本恭八郎(号・互尊翁)が創設した財産法人である。その発足前後の昭和十一年(一九三六)に互尊翁が歿したので、その後の運営は市民の有志によって支えられている。
 如是蔵は、仏教でいう知恵の蔵という意味であるから、野本恭八郎は、あらゆる文化財や人間の歴史に関する物品を集めようとした。とりわけ、野本は長岡の人物誌にこだわっていたから、二階は山本五十六いそろく元帥の遺品コーナーとなっている。

 野本恭八郎は嘉永五年(一八五二)生まれであるが、直接、河井継之助と面識はなかった。生れは幕府領の小国郷の出身である。その野本が長岡城下の渡里町の野本家に養子できたのは明治五年(一八七二)、二十一歳のときである。野本は生涯にわたって河井継之助を敬愛したという。その如是蔵博物館三階展示コーナーに、二幅の河井継之助の書が展示してある。いずれも王陽明の詩である。

険夷もと胸中に滞らず 何ぞ異らん浮雲の大空を過ぐるに 夜は静かなり海濤三万里 月明錫を飛ばして天風に下る

渓石何ぞ落々たる 渓水何ぞ冷々たる 石に坐して渓水を弄び 欣然として我が纓えいを濯う
渓水清くして 底見われ 我が白髪の生いたるを照す 年華は流水のごとく 一たび去って回停するなし 悠々たり百年の内 吾が道終に何をか成さん

 この二幅の詩は王陽明が三十六歳と三十七歳のときのもので、流謫るたくの地の新境地の開眼を示すものである。この詩を好んで書いた継之助の心をあらわすものとして必見の書である。

(稲川明雄)