【稲川通信37】寝食を忘れ李忠定公集を写す
王陽明が「天下の己れを信ずるを求めざるなり、自ら信ずるのみ、吾方に以て、自ら信ずるを求めて暇あらず、而して、人の己れを信ずるを求むに暇あらんや」と説いたというが、継之助は陽明学を学び、経世家を志すようになると、ますます強い克己心を発揮し出した。
それは、彼が嘉永六年(一八五三)六月にペリー来航に接してから、より強くなったと考えられる。残念ながら、継之助が佐久間象山・小林虎三郎・吉田松陰らとともに、浦賀沖のペリー艦隊を直接、見学に行ったという記録がない。象山塾生の一人であったという事実から、一行の中に含まれていたという憶測が伝わっているだけである。
ただ、この異国船騒ぎによって、継之助の運命が変わったことは確かである。彼は藩主牧野忠雅に建言をした。「その言、はなはだしく詭激きげきにわたれりといえども、この一事、はからずも忠雅の心を惹き、時局漸く困難ならんとする今日、以て用ふべきの器なり」と評価され、藩政関与の一歩を踏み出す。つまり牧野忠雅に、特命を帯び、評定役随役に任じられて、帰国することになる。
ときに経世家として一歩を踏み出した継之助は、陽明学により傾倒し、正義への確固たる信念をもやす。
『李忠定公集』全十二巻を筆写し、かつ歴代奏議類を勉学した継之助は、己れの運命をそこで悟る。長岡藩を改革するのは己れのみ、「小人にならず、大人になろう」と。