【稲川通信40】金華山などに登る

Published On: 2019年1月20日|Categories: 稲川通信|

継之助は川島億次郎(三島億二郎)とともに東北を遊歴し、金華山にも登ったという。
それは継之助が三十歳の安政三年(一八五六)のころだといわれている。温海あつみ・石巻・仙台らを廻国したとあるが、藩主牧野忠雅が、しきりに藩士に奥羽・蝦夷えぞを探索させたが、その一環かもしれない。
旅日記『塵壺』からうかがうと、登山に挑戦しなければならないという性分だったようだ。富士山や大山だいせんを眺め、しきりに登山の機会をうかがうが、断念せざるをえず、無念の思いが伝わってくる記事がある。
金華山は信仰の山であり、とりわけ興味を持ったこともうかがえる。たとえば、西国遊学の途中、芸州宮島に立ち寄り、ふとみあげると弥山みやまがあり、そこへ登ったというのである。また、金華山に登る際は、案内人をたてるものだが、「あきれた覚えがあるゆえ」二人で登ったとある。たぶん、継之助の合理的思考が俗の信仰を排除したのかもしれない。

川島とまた連れだって越後魚沼の妻有郷つまりごうにも遊んだとあるから、よほど高山や峡谷に興味を持っていたことが察せられる。

(稲川明雄)

(※金華山は紺碧の海に浮かぶ霊島で野生の鹿や猿が生息しており、また金華山西側中腹には黄金山神社が鎮座している)