【稲川通信42】西国遊学の志

Published On: 2020年10月3日|Categories: 稲川通信|

西国遊学の志

安政六年(一八五九)四月二十四日付の両親宛の書簡に、旅費五十両の無心が記されていた。五十両といえば大金である。それを無心してでも、備中松山藩(岡山県高梁市)の藩儒山田方谷のもとに行きたいという。目的は松山藩の財政改革の実際を知りたいというのだ。
山田方谷は松山藩の執政。継之助の師であった高野松陰や佐久間象山とともに佐藤一斎門下の高足の一人であった。当時、幕閣に松山藩主五万石の板倉がいた。勝静は有終館学頭の山田方谷を執政に登用して、藩財政の改革にあたらせた結果、大成功をおさめたというころだった。
書簡の中に山本帯刀(勘右衛門のこと)と牧野市右衛門の両家老も、西国遊学をすすめているとある。これをみれば、息子が家老の意をうけ、藩政改革の術を学んでくれば、立身出世が望めると期待できるものであった
二人の家老から西国遊学を認められ、継之助は「登天の心地」であることを伝え、「天の与えるところ」であると感嘆している。
このことを、この書簡を持参し、帰郷する村松忠治右衛門に伝言した。
「不肖の私、父母にるの道をもまえず、恐懼の至りに候えども、せめて立身行道は孝の終りと申す、教えにても相守りたく、憤発仕り候」と、その決意を述べている。父母への孝行は、立身をし人の道を行うことだとする継之助の書簡に、一、二もなく代右衛門は非常用備えの五十両の大金を送金している。

(稲川明雄)