稲川通信【43】登山好きの継之助

Published On: 2022年1月31日|Categories: 稲川通信|

登山好きの継之助

長岡城下から東を望むと、東山連峰が美しい。とりわけ雪形を描く春の夕陽をあびるころ眺めると最高だ。継之助も幼少のころから眺めつつくらした。とくにひときわ高い鋸山に関心を示していたことが、旅日記『塵壺』に出てくる。すなわち安政六年(一八五九)六月十二日のくだりに「鋸山の木、すでに尽んとす」とあり、城下で使う炭や材木が乱伐で、樹木がなくなるというのである。

長岡藩は東山連峰の一部を、侍たちのための林としていた。薪炭をそこから自由に採り、燃料に供していたのである。
富士山を眺め、その麓に広がる広大な樹林を見て、故郷の鋸山を思ったというのである。鋸山は標高七六四メートル。東山連峰で一番高い山である。友人の鵜殿団次郎の実弟が白峰駿馬と改名したように、雪をいただく鋸山は秀峰であった。

ところで、河井継之助は富士山登山にすさまじい未練を残していることが『塵壺』からうかがうことができる。
旅の初日に「不二頂をあらはす」とあり、旅の途中、「見あきぬ迄にながめ居たり」と、継之助が立ち止まっては富士山を眺める姿が想像できる。
そして、登山道に向かい、登山に挑戦しようとするのだが、悪天候にはばまれ断念する。それが、よほど残念だったのか、「終身の誤りの一つ也」と記すのである。なぜ、富士山に執心だったのか、それを知りたいものだ。

(稲川明雄)