稲川通信について
「稲川通信」の著者である稲川明雄前館長は、令和元年12月12日に逝去されました。【41宮路村の騒動】以降の「稲川通信」は、生前にいただいておりました原稿を掲載し、連載を続けます。原稿は、稲川前館長が最終校正をされる前のものですので、現在の考証とは異なっている箇所もあるかと思います。その点をなにとぞご承知のうえ、「稲川通信」をご覧いただければ幸いです。
【稲川通信33】継之助の読書好き
継之助の読書好きは、長岡城下でかなり著名だった。妹の牧野安子が後年、語るところによれば、「兄は毎々、書物を汚すようでは、駄目だと申していましたが、書物は非常に好きで、宅にいました時分には、夜など四角の行灯の三方を囲って、一方を明るくし、夜遅くまで勉強していました。二十歳前後のことと思いますが、他所から書物を借りて、藩の祈?寺の玉蔵院に、毎日籠って、すっかり写し取ったそうです。この書物は、いま森家にあります」と述懐している。森家とは森源三家。
その玉蔵院は長岡城に接した東北の一郭にあった真言宗寺院。いまは同寺と縁のあった長岡市柏町の千蔵院が管理する歴代住持の墓碑群を残し、跡形もない。伝説によれば、巨大な本堂を有し、寺格・規模とも城下第一の寺だった。寺の正面に並んだ侍屋敷を玉蔵院町と称した。寺跡のおおかたはJRの線路敷きの下となっている。
その玉蔵院は若い藩士たちに文武修練の名目で本堂などを開放していたらしい。また、河井継之助が兵制改革をした際にも、練兵場として使われている。
継之助は玉蔵院が貴重な書物を写し取っている。すなわち、嘉永二年(一八四九)からの筆写である「続近世業語抄」「柴野彦助上書」「明朝紀事本末抜書」などである。
現在、継之助筆者の呻吟語など、現存する筆写本は三本にすぎないが、河井継之助の人間形成を知るうえで、貴重な資料である。
(稲川明雄)
【稲川通信32】盆踊りを楽しむ
夏のある夜、長岡城下の辻々で、盆踊りがある。たいがい辻には老大樹があって、その周りを長岡甚句にあわせて踊る。音曲は甚句だが、三味線・笛・木樽の太鼓が中心で、たまに鐘をならす者もいた。
継之助は盆踊りが大のお気に入りで、若いころから変装して参加したという。妹の安子の着物を借りて女装したり、鳥追いの笠をかむり、着流しに脇差を差しはさんだ姿で出掛けたこともあったと伝えられる。
継之助は長岡甚句を歌わせると抜群だった。やや高音の澄んだ美声が朗々と響いたという。
この盆踊りに武士の参加は禁止されていた。盆踊りは領民の無礼講として、二百年以上にわたり、武家の参加を許さなかった。継之助の参加は、もちろん、役人(足軽)にみつかれば、それなりの処罰があった。そんな危険を冒しても、盆踊りに参加したかったのは、生来の性癖か、それとも庶民生活を知り、政治というものの眼を養おうとしたのかもしれない。
長岡藩領では、この盆踊りに必ず長岡甚句が歌われた。甚句は武家踊りともいわれたが、その歌詞は、領民の悲哀を歌ったものが多い。
お山の千本桜、花はさくなる実は一つ、九百九十九はソリャ無駄な花
だいらうだいらう角を出せだいらう、角を出さねば代官所へことわる
お前だか左近の土手で、背中ボンコにして豆の草取りやる
(稲川明雄)
【稲川通信31】桶宗の結成
三島億二郎の兄・伊丹政由が首領となった「桶宗」は、城下の若者組のようなものであったらしい。『北越名士伝』に桶宗(そこでは桶組となっている)をつぎのように紹介している。
君之ち、三間市之進・花輪馨之進・渡辺進の諸士と約し、桶組と名く。蓋し、箍桶 涓けん水を漏さざるの義に取ると云ふ。三士固もと長岡の三進と称す。皆、卓抜の名あり。初め、此群に入る者三十五名、後百余名に至る。
これによれば、河井継之助が三間・花輪・渡辺の三子と桶宗を結成したことになっている。
『三島億二郎傳』などには、小林虎三郎や川島億次郎・鵜殿団十郎など、幕末の長岡藩を背負う人材が集まったとあるから、若者の精神の陶治に一役買った集団教育であったものと思われる。もっとも野僕やぼくを好み、剛健、しかも勉学にいそしんだものといわれている。
『北越名士伝』では、河井継之助よりおよそ十歳くらい若い者たちが結成に尽力したことになっている。河井継之助は、のちに藩政を担当すると、この桶宗グループから登用し、改革の中心人物としたり、北越戊辰戦争では軍事掛や名隊長・使番・御金奉行などの要職に就かせていった。
なお、この桶宗の顧問格には、藩儒山田到処(愛之助)がなっていた。首領であった伊丹政由は、その天分を発揮することなく、二十九歳で病歿し、名は世に出なかった。
(稲川明雄)
【稲川通信30】立志を誓う
何歳のころに、継之助が陽明学と出会ったかを知る術は、いまのところない。郷土史家の今泉鐸次郎らは、十七歳のころには陽明学を学んでいたとしている。
長岡の研究者剣持利夫氏は、継之助が幼いころ『王陽明先生出身靖乱録』を読んで感化をうけたとしている。己れの人生に王陽明を似せているところが面白い。
十七歳のときには陽明学を学んで、立志を誓明したという証拠は、二十九歳のときの自作の漢詩にある。
十七天に誓って補国に擬す、春秋二十九宿心踣たおる、千歳此の機得るべきこと難かたし、世味知り来って長大息、英雄事を為す豈あに縁無からんや、出処唯応まさに自然に付すべし、古いにしえ自より天人定数存す、好し酣睡を将もって残年を送らん。
十七歳といえば元服の翌年である。そのまた前年十五歳のときには古義学を学び、崇徳館の質問生であったというから、元服を境に継之助の心境の変化があったにちがいない。
十七歳。天保十四年(一八四三)、この年、長岡藩は新潟上知という災難にみまわれる。水野忠邦ただくにの天保改革の一環として長岡藩のドル箱であった新潟湊が上知となった。港からあがる仲金すあいきんが二万両ともいわれた収入を一挙に失ってしまう。
少年・継之助にも、長岡藩の危機を悟ることができた。藩の柱石となることを、そこで誓い、鶏を割いて陽明を祭ったというのだろうか。
(稲川明雄)
【稲川通信29】師の高野松陰
「野菜を育てる気持ちで、人を教育せよ」と佐藤一斎いっさいが述べている。人の天性を伸ばすには、その特質を知り、おおらかに、しかもやさしく育てなければならないというのだ。
その佐藤一斎の門下には俊英が集まった。山田方谷ほうこく・佐久間象山しょうざんなど幕末の思想家を多数輩出する。その佐藤一斎の塾頭をしていた長岡藩士がいる。高野松陰しょういんである。名を正則といい、通称は虎太。松陰は号である。長岡藩士の小畔家に生まれたが、十五歳のとき、同藩士の高野七右衛門家に養子に入る。
「書を読み、目を過ぐれば、すなわち誦を成す」
といわれたほどの神童であった。
天保二年(一八三一)、長岡藩は三人の公費遊学者を初めて旅立たせるが、そのとき、山田愛之助・木村鈍叟とともに高野松陰も選ばれている。松陰は佐藤一斎の門下に入り、高足となった。同輩に山田方谷・佐久間象山らがいる。一斎は朱子学のほか陽明学にも造詣深かった。昼は昌平坂学問所で朱子を教え、夜は家塾で陽明を説くといわれた人物である。
高野松陰は長岡城下に帰り、藩校崇徳館の都講となったが、継之助に陽明学を教えた人物といわれている。
継之助の人生が変わったのは高野松陰にあったとある。その際、山田方谷・佐久間象山の高名を聞いたと考えられる。一方、高野松陰から朱子学を教えられた人物が小林虎三郎である。
(稲川明雄)
【稲川通信28】幕末の藩主牧野氏
継之助の人生に大きな影響を与えたのは、何といっても長岡藩主牧野氏の存在が大きい。出生時は九代牧野忠精。幕府老中職などを歴任し、文化大名といわれた人物だ。雨龍の絵を得意とし、諧謔性に富んだ人生観を、藩政にとりこんだ藩主だった。その一方、三潟干拓など思い切った新田開発施策を行っている。彼は龍にこだわっていたから、継之助のその号、蒼龍窟にも影響していると考えられる。父小雲から、九代藩主の英傑ぶりを聞き、臣僚たる我が身の立身を、蒼龍にたとえたものかもしれない。
十代藩主牧野忠雅は、その忠精の四男。襲風時は、ときの老中水野忠邦に、領地の三方替えを迫られたり、新潟上知を命ぜられたりしたが、老中職となってからは、備後福山藩主阿部正弘とともに、ペリー来航時に揺れる国事に奔走した。とくに海防掛老中として、水戸の徳川斉昭なりあき対策に腐心し、阿部とともに、とにかく外国との和親条約の締結まで持ち込んでいる。
このような藩主の活躍が、若い藩士の発憤につながったことはいなめない。幕末・明治期に有用な人材が輩出する原因となった。継之助も、その一人であり、直接、遊学中に建言をあげて、評定役随役に登用されている。忠雅の画像が伝わっているが、鋭い慧眼と忍耐強さが偲ばれる。その慧眼があったからこそ、一介の壮士・河井継之助の登場が可能になったといえる。
また、十一代藩主牧野忠恭は、逼迫する藩財政の将来を憂い、安政の改革、慶応の改革を断行させている。有用な藩士を登用し、思い切った構造改革をしてゆくことこそ、長岡藩を救う道だと悟り、継之助を登用した。
(稲川明雄)
【稲川通信27】藩校崇徳館
長岡城への千手口御門から少し上った、つまり南へ下ったところに追廻橋があった。長岡城の外濠の役割をしていたという赤川をまたいでいた橋である。いまは柿川と名を変え、川幅も三分の一程度に減り、河原もなくなったが、昔は徒歩では渡れぬほどの川であった。その北詰めの橋脇に藩校崇徳館があった。
藩校は文化五年(一八〇八)、九代藩主牧野忠精の指導によって、創設された。藩学は伝統的に古義学が中心に据えられていた。
幕末、その藩学には朱子学が台頭するが、長岡藩風は古義学の影響が強かったのである。とくに藩政府の中枢に採用される藩士は、幕末藩校崇徳館出身のエリートが占めるようになってから、ますます藩校の地位が高くなっていった。
河井継之助は幼少のころは藩校に通っていなく、十歳をすぎたあたりから通い出した。はじめ、通例に古義学を修めたようである。もっとも、素読生として入り、毎日、声をあげて暗誦をさせられたものであるから、退屈なものであった。
長岡藩の場合も他藩と同様だったが、藩校へ通うと同時に、武士としての教養・修業を師範と称する有能者に習ったようである。藩校を引くと、それぞれの藩士の家塾に通った。継之助も馬術などを習う。その際、「馬に乗れさえすれば良いのだ」という見識を持ったことが、彼の才覚のはじまりであった。そんな継之助が師の高野松陰に、その家塾で陽明学を授けられたことと考えられる。この陽明学を学ぶことで農を尊び、商を重用する彼の改革の心が芽ばえる。
(稲川明雄)
【稲川通信26】祖父・代右衛門秋恒のこと
父の代右衛門秋紀は祖父の代の世禄百四十石を二十石減禄されて、家督を嗣いでいる。その減禄の理由は定かではないが、祖父代右衛門秋恒が減禄の要因をつくったようだ。
祖父の略歴は、つぎのとおりである。
安永六年御番入。天明六年遺跡相続。寛政三年御納戸。同四年大坂詰め。同八年中間ちゅうげん頭。同十二年群奉行。文化三年蒲原水抜き一件、心配不行届につき御沙汰及ばされる。同四年新潟町奉行者頭格。同十一年者頭同格勘定頭。文政二年五月御慰御認 ?御画(雨龍画)之を下さる。同年九月大坂立帰り。同五年十二月家中困窮につき、御仁恵仰せ出されしに、取締方不行届、心得等閑につき御叱。同七年三月御役格式共御免。同年五月隠居。文政十三年閏三月二十八日病歿。
河井家三代目秋恒は順調に官吏の道を歩むが、三潟干拓事業に配慮が足りなかったと口頭注意を受けた。しかし、有能であったらしく、群奉行・新潟町奉行・勘定頭に累進し、大坂出張(蔵屋敷の運営や大坂商人からの金子借用か)も体験した。
ところが文政五年(一八二二)、何らかの会計上の失敗で責任をとらされている。これが致命的な欠陥となって勘定頭や者頭格にまで上り詰めた役職をやめさせられ、格式をとりあげられている。
同時に隠居となり、代右衛門秋紀が家督を相続する。結局、祖父は文政十三年、失意のうちに没するが、その無念さを、孫の継之助秋義が嗣ぐことになる。
(稲川明雄)
【稲川通信25】父・代右衛門のこと
父は代右衛門秋紀という。長岡城下ではかなり名の知れた茶人で、刀の鑑定家でもあった。
禄高百二十石の河井家の当主。継之助の河井家は宝永四年(一七五四)のころ、河井忠右衛門の二男、代右衛門信堅の才覚によって分かれた分家。
父の代右衛門秋紀は有能な官吏でもあった。天保十二年(一八四一)には十代藩主牧野忠雅ただまさが京都所司代に就くと、随行し、京都詰めとなった。このとき、筆頭家老稲垣平助の父平膳が京都で自裁している。帰藩後、武器頭・取次役・勘定頭などを歴任している。いずれも、実力が必要な役職である。
継之助の父が藩の官吏となって活躍していたころ、長岡藩創設以来、もっとも不運な時代に遭遇していた。それは九代藩主牧野忠精から十代藩主牧野忠雅に移行しようとしていたころで、長岡藩の存亡がかかっていた時代でもあった。つまり、先代の幕閣での公務負担による借財の累積、領内の自然災害の多発、そのうえに三方替え・新潟上知事件など、藩財政の破綻が重なっていた。また、先代が老中職をしたことにより、幕閣内での政争に巻き込まれていた。
父代右衛門は経理にたけており、藩財政の運営を担当していたから、その苦難の一端を背負うことになる。勘定頭としての体験などが、子の継之助の人間形成に大きな影響を与えたと考えられる。継之助の立志の背景に、父や祖父の存在があった。
(稲川明雄)
【稲川通信24】つぎのすけかつぐのすけか
河井継之助は、かわいつぎのすけと訓よむ。最近、つぐのすけとルビをふる伝記がふえたが、それは明らかな誤りである。
生誕地である長岡でさえ、一部の人たちがつぐのすけと称しているが、それは、以前から呼び慣ならわされた用語として使われていたものが、いつの間にか当たり前のようになってしまったのだ。
昭和四十年代まで、「河井つぐのすけさんは正しくはつぎのすけと呼ぶのがよいようですよ」という会話が交わされていたように思う。ところが、いまはつぐのすけだとある。吉川弘文館の『国史大辞典』にも、「かわいつぐのすけ」という訓よみになってしまった。
だいたい、継ぐはつなぐという意味である。ところが、『漢語林』などによると、「つぎ」は「あとをひきうける者。あとつぎ・後継者」とある。河井家の家譜をみると、二代代右衛門秋高の幼名が用之助であるが、三代から五代に至るまで継之助の幼名が使われている。家の長男、つまり、あとつぎという意味で、つぎのすけと称した方が自然である。
また、資料の中からも、つぎのすけと称していたことがうかがえる。戊辰戦争後、最初に刊行された野口団一郎の『戊辰北越戦争記』に「つぎのすけ」とルビがある。この戦争記は明治二十四年に刊行されている。明治三十一年刊の戸川残花の少年読本『河井継之助』(博文館刊)にも、そうルビがふってある。博文館は長岡出身の出版人大橋佐平の興した出版社だから、間違えるはずがないと考えられる。
河井継之助の甥・根岸錬次郎が、北越新報記者や長岡の歌人遠山夕雲に正しい訓みをたずねている。「そりゃ、愛想もつきのすけだよ」という答えがある。
「そもそも、つぐのすけと称した」と主張しはじめた研究者が安藤英男さんである。昭和六十二年刊の『河井継之助の生涯』の凡例に、つぎのように記している。
なお、継之助の訓み方が「つぐ」か「つぎ」かで、しばしば問題になっているが、本人が仮名かなを振った文献がない以上、近親者がどう訓んでいたかに耳を傾けるべきであろう。継之助の実妹・牧野安子氏、継之助の甥・根岸錬次郎氏は「つぐのすけ」と呼んでおられた。
とある。牧野安子は昭和三年に、根岸錬次郎は昭和十九年に没している。おそらく安藤氏は、その近親者から呼び名を聞かれたのではないだろうか。いつとはなしに慣用としてのつぐのすけが使われていたのだと思う。
遺族でいえば、河井継之助家を嗣いだその末裔にあたる小川寿満子さんが「継之助の呼び名が近ごろつぐの助とよく云われますが父(河井茂樹。森源三の二男・河井家養子)もつぎの助と申して居りましたし、父の弟森路九郎叔父が生きて居りましたので尋ねました処、何時も皆さんからツギサと呼ばれていたと云っていますから、継之助つぎのすけが本当ですよ」と言っている。
(稲川明雄)