【稲川通信30】立志を誓う

Published On: 2017年2月20日|Categories: 稲川通信|

何歳のころに、継之助が陽明学と出会ったかを知る術は、いまのところない。郷土史家の今泉鐸次郎らは、十七歳のころには陽明学を学んでいたとしている。

長岡の研究者剣持利夫氏は、継之助が幼いころ『王陽明先生出身靖乱録』を読んで感化をうけたとしている。己れの人生に王陽明を似せているところが面白い。

十七歳のときには陽明学を学んで、立志を誓明したという証拠は、二十九歳のときの自作の漢詩にある。

十七天に誓って補国に擬す、春秋二十九宿心踣たおる、千歳此の機得るべきこと難かたし、世味知り来って長大息、英雄事を為す豈あに縁無からんや、出処唯応まさに自然に付すべし、古いにしえ自より天人定数存す、好し酣睡を将もって残年を送らん。

十七歳といえば元服の翌年である。そのまた前年十五歳のときには古義学を学び、崇徳館の質問生であったというから、元服を境に継之助の心境の変化があったにちがいない。

十七歳。天保十四年(一八四三)、この年、長岡藩は新潟上知という災難にみまわれる。水野忠邦ただくにの天保改革の一環として長岡藩のドル箱であった新潟湊が上知となった。港からあがる仲金すあいきんが二万両ともいわれた収入を一挙に失ってしまう。

少年・継之助にも、長岡藩の危機を悟ることができた。藩の柱石となることを、そこで誓い、鶏を割いて陽明を祭ったというのだろうか。

(稲川明雄)