【稲川通信28】幕末の藩主牧野氏

Published On: 2017年1月24日|Categories: 稲川通信|

継之助の人生に大きな影響を与えたのは、何といっても長岡藩主牧野氏の存在が大きい。出生時は九代牧野忠精。幕府老中職などを歴任し、文化大名といわれた人物だ。雨龍の絵を得意とし、諧謔性に富んだ人生観を、藩政にとりこんだ藩主だった。その一方、三潟干拓など思い切った新田開発施策を行っている。彼は龍にこだわっていたから、継之助のその号、蒼龍窟にも影響していると考えられる。父小雲から、九代藩主の英傑ぶりを聞き、臣僚たる我が身の立身を、蒼龍にたとえたものかもしれない。

十代藩主牧野忠雅は、その忠精の四男。襲風時は、ときの老中水野忠邦に、領地の三方替えを迫られたり、新潟上知を命ぜられたりしたが、老中職となってからは、備後福山藩主阿部正弘とともに、ペリー来航時に揺れる国事に奔走した。とくに海防掛老中として、水戸の徳川斉昭なりあき対策に腐心し、阿部とともに、とにかく外国との和親条約の締結まで持ち込んでいる。

このような藩主の活躍が、若い藩士の発憤につながったことはいなめない。幕末・明治期に有用な人材が輩出する原因となった。継之助も、その一人であり、直接、遊学中に建言をあげて、評定役随役に登用されている。忠雅の画像が伝わっているが、鋭い慧眼と忍耐強さが偲ばれる。その慧眼があったからこそ、一介の壮士・河井継之助の登場が可能になったといえる。

また、十一代藩主牧野忠恭は、逼迫する藩財政の将来を憂い、安政の改革、慶応の改革を断行させている。有用な藩士を登用し、思い切った構造改革をしてゆくことこそ、長岡藩を救う道だと悟り、継之助を登用した。

(稲川明雄)