稲川通信一覧

稲川通信一覧2023-05-07T11:21:12+09:00

稲川通信について

「稲川通信」の著者である稲川明雄前館長は、令和元年12月12日に逝去されました。【41宮路村の騒動】以降の「稲川通信」は、生前にいただいておりました原稿を掲載し、連載を続けます。原稿は、稲川前館長が最終校正をされる前のものですので、現在の考証とは異なっている箇所もあるかと思います。その点をなにとぞご承知のうえ、「稲川通信」をご覧いただければ幸いです。

【稲川通信13】会津の墓

継之助は八月十六日に没した。直接、火葬にふされ、その遺骨を従僕松蔵によって、会津城下に運ばれている。

(実は会津塩沢で、松蔵は、)かねてから継之助の妻すがから、万一の場合には遺髪だけは持って帰るように言いつかっていたので、ある朝、涙ながらに「今のうちにお髪だけを頂いておきたい」というと継之助は快く切らせたという。

とある。多分、継之助は死期を覚っていたのだろう。
会津塩沢では村人が継之助の墓を建て、毎年供養すると同時に、継之助の病室をいまでも現存保護し敬慕している。
法名は忠良院賢道義了居士。会津藩は礼を以って東山の建福寺に葬っている。その葬儀には会津藩主松平容保公をはじめ重立った藩士が参列している。
しかし、松蔵はその遺骨を墓に入れず、別の所へひそかに葬った。継之助の遺命で骨箱は二つ作れといわれたそうである。のちに松蔵が捕り、獄吏が「河井継之助の墓をあばいたら遺骨がなかった」ということを聞いて忍び笑いをしたと述懐している。

(稲川明雄)

2015年4月30日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信12】臨終

八十里越をしたのち、継之助の痛みは、益々激しくなった。「はじめより死ぬことは覚悟していたが、こんなに痛いとは覚悟していなかった」と弱音を吐いた。傷を受けた当初から、付添いの医師には碌に傷の手当をさせなかったことが、次第に傷を悪化させていったのである。それはもとより覚悟のうえだといっている。

左膝の傷は悪化して、ガス壊疽になったとある。そこに治療のため、駆けつけた医師松本良順は一目、継之助を見、傷を見て繃帯を巻き直して帰ったという。その際、「滋養をつけよ」と牛肉を置いていったが、それを焼いてうまそうに食べたというのである。

帰りがけに良順が「会津の壮士も君の来るのを待っているから」といったら、継之助は「会津も、もう化の皮剥げたかなあー」と笑って答えたというのである。己れの化の皮ではなくて会津の化の皮とは何んだろう。

良順が帰ってから「久しぶりで豪傑の顔をみた」といった。

その終い住家かとなったのが、矢沢宗篤宅。宗篤は幕末、医術修行を長岡城下神田二之町の佐藤寛斎のところで学んでいる。佐藤は五人扶持の藩医兼町医。当時、町奉行の改革が断行されていた。矢沢はその当事者が、来宅したことを終生、誇りにした。

八月十五日夜、継之助は従僕松蔵を枕へ呼び、「松蔵や永々厄介してくりやってありがたかったでや」と感謝の言葉をいう。

松蔵は夜を徹して棺を作り、ついで平型の納骨箱を二つ作った。翌朝、これを見て喜んだという。「梨が食べたい」といったのはこのときだろうか。しばらく普通のように談笑し昼寝をせんとて、人を避け、そのまま昏睡状態となり、八月十六日午後八時ごろ没した。

(稲川明雄)

2015年4月14日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信11】八十里越

八月五日、河井継之助一行は、八十里越の入り口である吉ヶ平に到着した。吉ヶ平には数件の旅宿があったが、そこには逃げ遅れた負傷者や長岡藩の女性や子供たちがいた。一行は一刻もはやく峠を越えたかったが、継之助が会津へ行くことを嫌ったため、そのまま庄屋の椿屋敷に宿泊することにした。

その夜、継之助は庄屋から、吉ヶ平に伝わる昔話を聞く。その厚意に身じろぎもせず聞く継之助。その伝説は「雨生池物語」というものだった。

美しい娘の住む家に一人の若武者が、血まみれになって「休ませてくれ」と言って入ってきた。娘はひと目で若者を気に入り、親切に介抱した。二か月もたつと傷が癒いえて若者は一人で山に入り、カモシカや熊を獲ってきた。ある晩のこと「大変、お世話になりました。明日の朝、夜明け前にここを出なければならなくなりました」と娘に告げた。娘は突然なことで泣きくずれ、何もいえず、母に相談した。母は「お前の腹には、あの侍の子供もいるから、きっと帰ってくる。だから赤いキネシリの玉をあげるから、針で衣のすそに縫い付けておきなさい」といった。二人はその晩、眠りについたが翌朝、若者はもういなかった。そこで娘は糸を頼りに探すと、糸は林の中の雨生が池の中に消えていた。すると天がにわかにかきくもり、黒雲がわき、やがて大蛇が立ちあらわれ「私は助けていただいた池の主です。ここにくる前に蛇に毒針をさされ、命ももはやこれまでです。私の子供を大切に育ててください。生まれてくる子供の脇の下には蛇のウロコが三枚あります」といって姿を消した。
やがて、娘に子供が生まれ、立派に成長して五十嵐小文治と名乗る武将となった。

という伝説である。この話を神妙に聞く継之助の胸中を察してみると哀しくなる。

(稲川明雄)

2015年3月20日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信10】負傷ののち城内へ

新町口で継之助が負傷すると、戸板に乗せて、長岡城内に運び、御引橋脇の土蔵のなかに入れた。二の丸隅櫓だという説もあるが、いずれにしても、城内・城外とも鉄砲玉が乱れ飛んでいたから、堅牢(けんろう)な土蔵造りが一番安全と考えた側近の者たちの才覚だった。そこで、顔面蒼白となっている継之助を介抱している。二十五日夕方には森立峠を守備していた長州藩振武隊が、長駈、城下に進入し、鉄砲をみだりに発射していて、土蔵にもブスブスとあたりはじめた。

「刀をよこせ、首だけは敵に渡さんでな」といい、大刀を胸の上に乗せ、敵が土蔵に進入してきたら斬り結ぶ意思を従者たちに伝えたという。

そのとき、継之助は杜甫の「韋左丞丈(いさじょうじょう)に贈り奉る」を吟じた。

がん袴(がんこ)餓死せず、儒官多く身を誤る

丈(じょう)人試みに静聴、賤子具(つぶ)さに陳(のぶ)るを請(こ)う

その五言絶句二十二韻を朗々と吟じた継之助を、従者だった外山脩造が、つぎのように述懐している。

「その吟声がいかにも朗々として、平常酒席などで興に乗じて、詩吟なさるときと少しも変っておらぬ」もののふは、平素から生死を度外視して戦いを専一にするというふうがあらわれていたと伝えている。翌日、城外に出て、四郎丸村の昌福寺へ移った。

(稲川明雄)

2015年3月11日|Categories: 未分類, 稲川通信|

【稲川通信9】八丁沖渡河作戦

七月二十五日の朝、八丁沖を渡り、長岡城下に突入した長岡藩の諸隊は、指図通りの戦闘をし長岡城を奪還した。総督河井継之助は敗走する西軍兵を信濃川河岸まで追いつめている。そこでの指示は「敵が逃げさえすればよいのだ」というものだった。追撃もせず、逃避を専一にしようとする西軍兵に、ただ、むやみに銃砲を放っていたというのだ。実は当初の進軍手配には、渡河して大島村の占領まで企んでいた。

ではどうして、最後まで彼は目的を達しようとしなかったのであろうか。
第一に長岡藩兵が前夜からの激戦で疲れ切っていた。第二に窮鼠きゅうそを追いつめれば、味方にも手痛い犠牲がでると考えたというふうにもみられる。

だが外山脩造などの当日の継之助の行動をみてみると寸度違っていたようである。

渡河後草生津村で分捕った馬で大手口の方に駆け戻っていったこと。外山らが大手口に到達すると、石垣に腰かけていた継之助がいたこと。西軍にとらわれていた従者の大崎彦助のことをたずねたので、脩造が「救い出しました」と答えると、ここに連れて来いと命じたこと。その後、継之助は大崎彦助・外山脩造・目黒茂助らとよもやまの話をしたというのだ。相手をしたのはいずれも栃尾郷の農民ばかり。それから新町口へ出張って負傷する。

よもやま話とは何んだろう。負傷した継之助が担架に乗せられて、敗走したが、その際見附で、小林乙三郎という若い藩士につぎのようなことを述懐している。
勝ったものも、負けたものも、武士(さむらい)は大勢の百姓にまけて仕舞ふ、見苦しいことをせずに、武士の絶えないうちに、潔く死んだらよかろう。

西軍兵を土壇場まで追いつめても全滅させなかったこと。農民の若者たちとよもやま話をしたこと。死地に赴くかのように、新町口にすたすたと弾が乱れ飛ぶなかを歩いて行ったこと。河井継之助の眼には何がみえていたのだろうか。

(稲川明雄)

2015年2月24日|Categories: 未分類, 稲川通信|

【稲川通信 8】今町の戦い

この日、河井継之助は「紺飛白(こんがすり)の単衣(ひとえ)に平袴(ひらばかま)を着け、大座の下駄を穿(うが)ち、旭を画ける竹骨の軍扇を手にし、挺身弾丸雨飛の間に馳駆ちくして諸隊を指揮せり」という。

慶應四年六月二日、今町の戦いのときの河井継之助の颯爽(さっそう)たる指揮ぶりである。本街道を山本帯刀大隊長が率いる一隊がすすみ、河井継之助と会津藩の佐川官兵衛らの指揮する主力隊が、脇街道から西軍陣地の今町を攻撃した。今町は西軍の最前線の兵站(へいたん)地であった。西軍は広い越後平野に展開していて、今町は要の位置にあった。

五月二十七日、加茂本営にあった継之助は、今町攻略を企図し、栃尾方面にいる諸隊を、警備兵のみを残して、加茂町に終結させた。翌二十八日本営に諸隊長を集め、作戦案を呈示、今町を攻略し、つぎに長岡城奪還の意図を告げ激励した。

雨中を進軍し、本道を南に進む牽制隊が二日正午ころ西軍と交戦に入った。主力部隊は脇街道から、西軍の核心に迫った。

(稲川明雄)

2015年2月10日|Categories: 未分類, 稲川通信|

【稲川通信 7】 落城の日の森立峠

従僕の大崎彦助は、長岡城落城の日、河井継之助と森立峠で邂逅している。そのとき、継之助の左肩には生々しい傷跡があったという。

慶應四年五月十九日早朝、西軍の長州藩奇兵隊はおりからの洪水で濁流となっている信濃川を強行渡河し、長岡城下になだれこんだ。続いて、薩摩藩外城隊・高田藩兵も続いた。不意を突かれた長岡藩兵は敗走する。

摂田屋村の本陣にいた河井継之助は城下の方での異常な事態を察知すると、ガトリング砲一門を率い、馬に乗り、城下に駆けつけている。渡里町口、内川橋で戦っている長岡藩兵に馬上から激励したのち、一旦、城内に退いた。城内に入ると藩主一行の安否をたずねたという。そのころはもう家老牧野頼母の裁量で、城東、悠久山方面に逃れていた。

継之助は大手口にガトリング砲を据え、みずから操作し近寄る西軍兵に発砲したというが、その際、左肩に弾丸があたり負傷した。継之助も城東悠久山に退き、そして森立峠へ逃れた。多くの長岡藩兵とその家族らがたどった落城の日の逃避の様子である。その森立峠から炎上する長岡城と城下町をみて、多くの兵士と家族が涙を流した。継之助は諸将を集め軍議し、今一度、峠を下って城を奪還しようとしたが、村松藩が裏切り、横撃を企てているという注進が入り、結局、避難を優先することになった。その際の継之助の様子を彦助は終生忘れなかった。「お前は農民の出。この戦さが敗けたとはいえ卑屈になるな。もとの農業に精を出せ」といったという。

(稲川明雄)

2015年2月2日|Categories: 未分類, 稲川通信|

【稲川通信 6】 内川橋の戦い

五月十九日早朝、西軍の信濃川強行渡河により、長岡城が落城してしまう。この日の朝摂田屋の本陣にいた継之助は、俄かに起る激しい砲声と喚声に、一里の彼方にある長岡城下に異変いへんが生じたことを覚り、救援に赴くこととした。従うはわずかな兵とガトリング砲一門。ガトリング砲は馬に引かせた。みずからも馬に乗り疾駆した。

深い霧が城と城下を包んでいたが、あちこちに火の手があがっていた。逃げ惑う住民たちが右往左往していた。

西軍は長州藩の奇兵隊、高田藩兵と薩摩藩の外城隊だった。対するは長岡藩の約十個小隊。伊東道右衛門のように短槍を携え、鎧姿で立ち向かう長岡藩兵もいた。

継之助はまず渡里町口の戦いを視察し、ついで北上し内川橋の戦いの様子を観た。内川橋の対岸には兵学所があった。守る方には御蝋座稲荷社や寄場役所があった。低い土塁があり、そこを十五・六歳の少年兵が守っていた。河井継之助は二つの戦いの場を単身で視察し、支えられると判断し、城中に引きあげることにした。ところが内川橋北方の安善寺に宿陣していた村松藩が「敵の襲来だ」と判断し、長岡藩兵の背後を銃撃したのである。これには長岡藩兵も驚き、「村松藩が裏切った」と流言が流れ、ついに長岡藩兵の潰走につながっていく。

結局、この敗走が落城となり、継之助の無念となる。

(稲川明雄)

2015年1月7日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信 5】 西軍本営を衝けず

五月十六日から始った西軍の長岡城下への砲撃。その初弾の弾痕だんこんが、御菓子「越乃雪」で有名な「大和屋」の土蔵に今も残っている。信濃川の西岸から飛来する砲弾に、住民は避難に右往左往したと記録にある。

長岡藩兵の主力は朝日山方面に展開していて、城下近くの信濃川右岸を守備する兵が少なかった。ただ、当時、洪水で川が暴漲しており、渡れない状態にあったから、ようやく守れたというのが事実である。

ところが十八日から、その砲撃が俄かに激しくなった。洪水のなか、強行渡河してくる気配が察知できた。事実、何艘そうかの舟が渡河を試み失敗している。これに河井継之助は危機を覚り、信濃川右岸の長岡陣地を巡視した。その際、継之助は「いま一日、耐守せよ。そうなれば我に一計あり。対岸の敵を撃破してみせる」と叫びまわったとある。

河井継之助は少勢の長岡藩兵が、広い、しかも二面作戦をどう有利に戦っていく勝算があった。
すなわち、地の利を生かし、水火の術を使い、少勢で敵の本営衝く作戦である。

五月十九日も西軍の大島本営と小千谷本営を、前島の渡しから信濃川を渡河し衝く作戦を実行しようとしていた。ところが、西軍の信濃川渡河の方が先に実施されてしまった。先手必勝をこころがけていた継之助にとって「無念」と「誤算」が、西軍の信濃川渡河作戦であった。

(稲川明雄)

2014年12月24日|Categories: 稲川通信|

【稲川通信 4】 朝日山の戦い

五月十一日午後二時、俄かに激しい雨が降り出した。それを機に長岡藩の槍隊や会津・桑名藩兵は、榎峠を一気に駆け降りて、朝日山へ登った。それを同時に山麓にいた長州藩奇兵隊を中心とする西軍兵も朝日山の登攀を開始した。ここに朝日山争奪戦がはじまったのだ。

朝日山は三国街道脇にそびえる平凡な山で土地の人は大開山(おおひらきやま)とか野辺山と呼んでいた。ところが戦争中、両軍兵士が激戦を重ねるうちに、朝日山というようになったとある。それは、朝日を山頂に仰ぎ、苦戦したのでそう名付けられたというのだった。もっとも朝日山の東の彼方に「朝日」という小村落もあった。

その朝日山にいちはやく大砲をあげ、陣地を構築したのは東軍であった。その指導は長岡藩の家老河井継之助であった。継之助は陣地構築には近くの農民を使わず寄場の人夫を使ったという。「陣地が巧くできたあかつきには放免にしてやるぞ」と励まして造りあげた。山頂の陣地構築を戦場での作業に、継之助の采配は際立っていた。

麓に陣地構築した西軍には砲弾が降りそそぐ結果となった。そこで五月十三日、長州藩参謀時山直八が指揮する長州藩兵が奪取をはかり攻撃するが、かえって時山が戦死する結果となった。長岡藩兵ら東軍側が朝日山の戦いを有利にすすめ、山県狂介(有朋)が、「仇守るとりでのかがり影ふけて、夏の身に沁む越の山風」と詠むほどの苦戦となった。

(稲川明雄)

2014年12月10日|Categories: 稲川通信|
Go to Top