【稲川通信13】会津の墓

Published On: 2015年4月30日|Categories: 稲川通信|

継之助は八月十六日に没した。直接、火葬にふされ、その遺骨を従僕松蔵によって、会津城下に運ばれている。

(実は会津塩沢で、松蔵は、)かねてから継之助の妻すがから、万一の場合には遺髪だけは持って帰るように言いつかっていたので、ある朝、涙ながらに「今のうちにお髪だけを頂いておきたい」というと継之助は快く切らせたという。

とある。多分、継之助は死期を覚っていたのだろう。
会津塩沢では村人が継之助の墓を建て、毎年供養すると同時に、継之助の病室をいまでも現存保護し敬慕している。
法名は忠良院賢道義了居士。会津藩は礼を以って東山の建福寺に葬っている。その葬儀には会津藩主松平容保公をはじめ重立った藩士が参列している。
しかし、松蔵はその遺骨を墓に入れず、別の所へひそかに葬った。継之助の遺命で骨箱は二つ作れといわれたそうである。のちに松蔵が捕り、獄吏が「河井継之助の墓をあばいたら遺骨がなかった」ということを聞いて忍び笑いをしたと述懐している。

(稲川明雄)