稲川通信について
「稲川通信」の著者である稲川明雄前館長は、令和元年12月12日に逝去されました。【41宮路村の騒動】以降の「稲川通信」は、生前にいただいておりました原稿を掲載し、連載を続けます。原稿は、稲川前館長が最終校正をされる前のものですので、現在の考証とは異なっている箇所もあるかと思います。その点をなにとぞご承知のうえ、「稲川通信」をご覧いただければ幸いです。
【稲川通信 3】榎峠の戦い
長岡城下から南へ約四里。三国街道第二位の難所榎峠があった。一位の三国峠が険阻であるとするならば、榎峠は街道の西側の断崖が、真下の深い信濃川の坩堝を見下す恐怖にあった。そのすさまじさに旅人の足がすくんだ難所であった。
初期の北越戊辰戦争は、そういった難所や高地を占領し、敵方を威圧することにあったから小千谷談判後、やすやすと西軍は上田藩兵を派遣して榎峠を占領している。榎峠は長岡藩領の南端の要衝だった。
摂田屋本陣で河井継之助の開戦の決意を聞いた長岡藩兵の戦意は一気にあがっていた。しかし、継之助はあくまで敵方が攻めてくるまで攻撃をしてはいけないと兵たちを戒めていた。だが、談判後、六日を経ても西軍は攻めてくる気配をみせなかった。
そこで五月九日、継之助は会津藩の佐川官兵衛、衝鉾隊の古屋佐久左衛門らを、長岡城中に招き軍議をした。
継之助はこれまで、藩領に他領の藩兵が入ることを極度に嫌っていたが、東軍将士を招き入れたことで、奥羽諸藩とともに西軍と戦うことを決意した。「藩領を侵し、我が農事を妨ぐるものは真の官軍にあらず」と言い放った継之助に明確な敵の姿が見えた。
軍議で速かな榎峠の奪還を提案し、翌十日に総軍を率い攻撃することが決まった。五月十日先制攻撃により榎峠を奪還。翌十一日朝日山戦となった。
【稲川通信 2】摂田屋本陣
河井継之助は摂田屋の本陣で、諸隊長を前に演舌する。
そもそも、王師は戦いを好み、人民を苦しめるものではない。だが、いまの官軍をみるに彼らは兵威をみだりに誇示し、戦争を挑発しているかのようである。それに徳義たる義理人情を放り出し、他(ひと)を不徳不義に陥しめようとする気配が濃厚である。
これらをかんがえると、彼らは天皇の名を借りて、私欲をたくましくする奸賊だと思う。我長岡藩はその奸賊を誅殺する。それは新しい日本の国家のためだ。諸君は隊士鼓舞し、士気を励まし、たとえ敵にあろうことになっても、向う側より発砲しないかぎりは反抗してはならない。
といい、意気軒昂。心中の不平が満面にあふれ、眼光は爛々としていたという。
先日の小千谷談判の不調を受け、その後、川島億次郎との談判の結果、諸隊長に通達した。
光福寺周辺には長岡藩兵が充満していた。それぞれの宿陣地に隊長は帰り、やがて攻め込んでくる西軍兵士との戦いに備えたのである。
このときの河井継之助の胸中には、一藩が独立しても正義を貫こうとする強い決意があった。長岡藩兵三大隊二十三小隊、砲三十門、その藩兵千三百余人で西軍と戦おうと決意した。
【稲川通信 1】前島村の開戦決意
小千谷会談が決裂したのち、その翌朝、再度、政府軍の本営に継之助自身赴いている。しかし、その門前に来て、俄にきびすをかえし帰陣を急いだ。帰還については異説もあるが、浦の渡しで信濃川を渡り、前島村に着いたとある。そこには幼いころからの友、川島億次郎(後の三島億二郎)が警備の一兵士として駐屯していた。
川島億次郎の長男三島徳蔵は、このときの模様をつぎのように述懐している。
五月二日、河井氏(河井継之助)は小千谷に於ける岩村軍監との談判不調に終り、帰路信濃川を渡り、老父億二郎の駐屯せる前島の庄屋宅を尋ねられた。その時の話は極めて、重大事件であったと見えて、門前に大川市左衛門を見張らしめ、付近に何人も近づくことを許さずして、両人は川端に赴き、密談数刻に及んだということであるが、河井氏は欣然老父の手を握って、これで安心した、闔藩人なきに非ざるも、予のため藩のため、働く真の丈夫は、君を措いて他になし、事、慈に至る、ともにともに一死以て、藩公に報ずるところなかるべからずと、両人は前日の仇怨を忘れ、快善として堅い握手をした。(今泉省三著『三島億二郎伝』)
このとき、継之助は会談の模様を億次郎に語り「我が首と三万両をもって」和平に応ずるよう億二郎に迫ったという。億二郎は「君がそれほど我が藩を思うのであれば、一藩あげて対抗しようぞ」と握手をしたというのである。川島の人望が継之助に味方した。三島は戦後、このことをたずねられると不快の表情をしたという。