【稲川通信 3】榎峠の戦い
長岡城下から南へ約四里。三国街道第二位の難所榎峠があった。一位の三国峠が険阻であるとするならば、榎峠は街道の西側の断崖が、真下の深い信濃川の坩堝を見下す恐怖にあった。そのすさまじさに旅人の足がすくんだ難所であった。
初期の北越戊辰戦争は、そういった難所や高地を占領し、敵方を威圧することにあったから小千谷談判後、やすやすと西軍は上田藩兵を派遣して榎峠を占領している。榎峠は長岡藩領の南端の要衝だった。
摂田屋本陣で河井継之助の開戦の決意を聞いた長岡藩兵の戦意は一気にあがっていた。しかし、継之助はあくまで敵方が攻めてくるまで攻撃をしてはいけないと兵たちを戒めていた。だが、談判後、六日を経ても西軍は攻めてくる気配をみせなかった。
そこで五月九日、継之助は会津藩の佐川官兵衛、衝鉾隊の古屋佐久左衛門らを、長岡城中に招き軍議をした。
継之助はこれまで、藩領に他領の藩兵が入ることを極度に嫌っていたが、東軍将士を招き入れたことで、奥羽諸藩とともに西軍と戦うことを決意した。「藩領を侵し、我が農事を妨ぐるものは真の官軍にあらず」と言い放った継之助に明確な敵の姿が見えた。
軍議で速かな榎峠の奪還を提案し、翌十日に総軍を率い攻撃することが決まった。五月十日先制攻撃により榎峠を奪還。翌十一日朝日山戦となった。