【稲川通信41】宮路村の騒動
改革を推しすすめると当然、軋轢が生ずる。長岡藩でも十代藩主牧野忠雅の強力な改革案が安政年間に推しすすめられたが、農村では庄屋層と本百姓の間で騒動が起きた。
長岡藩北組宮路村は三十数戸の小村だが、もっとも典型的な騒動が起きていた。
継之助は、その騒動の対処を担当する外様吟味役に就いた。安政五年、三十二歳のときである。外様吟味役は無役の藩士の中から、有能な人材を選んで、難事の審判を行なう役目である。しかし、この宮路騒動は村民間の騒動としては根深く、何人もの外様吟味役が入っても解決できないでいた。
そもそも、この騒動は農村側が庄屋の搾取を北組代官所に訴え出たことからはじまっている。改革によって副業の推進がはかられたが、増収となると、その何割かを庄屋がピンハネしたというものであった。農民側は庄屋の不正を訴え出たが、庄屋は村役人として当然の権利だと主張した。庄屋の人望が薄かったことが、なおいっそう様相を複雑にした。
継之助は宮路村に約二十日間常駐し、庄屋・農民の双方を裁断した。そのとき、詠んだ漢詩がある。
古哲は片言にして大事を定む 二旬の勤苦も未だ全く安からず
鈍刀断たず徒らに物を傷く 磨琢誰か霜刃をして寒からしめん
宮路村の騒動での己れの非力さと体制の矛盾を嘆いている。このときの誰も救えない無念の思いが再度の遊学につながってゆく。
(稲川明雄)