【稲川通信9】八丁沖渡河作戦
七月二十五日の朝、八丁沖を渡り、長岡城下に突入した長岡藩の諸隊は、指図通りの戦闘をし長岡城を奪還した。総督河井継之助は敗走する西軍兵を信濃川河岸まで追いつめている。そこでの指示は「敵が逃げさえすればよいのだ」というものだった。追撃もせず、逃避を専一にしようとする西軍兵に、ただ、むやみに銃砲を放っていたというのだ。実は当初の進軍手配には、渡河して大島村の占領まで企んでいた。
ではどうして、最後まで彼は目的を達しようとしなかったのであろうか。
第一に長岡藩兵が前夜からの激戦で疲れ切っていた。第二に窮鼠きゅうそを追いつめれば、味方にも手痛い犠牲がでると考えたというふうにもみられる。
だが外山脩造などの当日の継之助の行動をみてみると寸度違っていたようである。
渡河後草生津村で分捕った馬で大手口の方に駆け戻っていったこと。外山らが大手口に到達すると、石垣に腰かけていた継之助がいたこと。西軍にとらわれていた従者の大崎彦助のことをたずねたので、脩造が「救い出しました」と答えると、ここに連れて来いと命じたこと。その後、継之助は大崎彦助・外山脩造・目黒茂助らとよもやまの話をしたというのだ。相手をしたのはいずれも栃尾郷の農民ばかり。それから新町口へ出張って負傷する。
よもやま話とは何んだろう。負傷した継之助が担架に乗せられて、敗走したが、その際見附で、小林乙三郎という若い藩士につぎのようなことを述懐している。
勝ったものも、負けたものも、武士(さむらい)は大勢の百姓にまけて仕舞ふ、見苦しいことをせずに、武士の絶えないうちに、潔く死んだらよかろう。
西軍兵を土壇場まで追いつめても全滅させなかったこと。農民の若者たちとよもやま話をしたこと。死地に赴くかのように、新町口にすたすたと弾が乱れ飛ぶなかを歩いて行ったこと。河井継之助の眼には何がみえていたのだろうか。
(稲川明雄)