【稲川通信36】 久敬舎時代

Published On: 2018年3月5日|Categories: 稲川通信|

久敬舎時代

久敬舎に鈴木虎太郎という青年がいた。継之助が再度の遊学で久敬舎に入塾した安政六年ころは十六歳であったというから、少年に近かったのだろう。
虎太郎は後年、禅に凝って刈谷無穏と名乗って、僧のような生涯を送り、明治三十二年、三重県津市で歿した。その無穏が継之助の三十三歳のころの面影を語っている。

わしの席の隣りに、眼のギロッとして三十歳前後の人がいた。どうも様子の変った人だと思って名を訊いたところ、越後の河井継之助だといった。学問にはほとんど興味がないようであった。というよりは、自己流に興味のある特別の学問に熱中している風にみうけた。

継之助は、この虎太郎に作詩を頼んだり、読書について一家言を呈している。そのたびに虎太郎は驚いたり、あきれたりしている。いわば常識に捉われない変人のように映ったらしい。
おみしゃん、面白いだけで本を読むなら、芝居か寄席にでも行くがよい、と奇妙なことを言われたこともあった。あるとき、「吉原細見」をみせて、芸娼妓の名のところに◎〇×と印があるところを説明してくれた。
「英雄の鉄腸を溶かすものをためしているのさ」と、こともなげに言う継之助を、豪傑とは、こういうのをいうのかなと思ったと述懐している。吉原の小稲のところへ通ったのは、どうも、このころのことらしい。

※写真はイメージです、久敬舎ではありません。