【稲川通信23】生誕地はどこか

Published On: 2016年11月25日|Categories: 稲川通信|

文政年中の長岡城下図をみると、河井代右衛門の屋敷は長町の東南の端にある。その後の城下絵図にも河井継之助の屋敷地の位置は変わっていない。
従来、継之助は同心町から移ってきたという説があった。同心町は町同心の住む同心屋敷があったところである。何らかの事情で、河井家は同心町に逼塞させられていたと考えられてきたが、そういう事実は現在まで見いだせないのである。
この同心町から長町に移ってきたとする説は、河井継之助研究の第一人者安藤英男氏の主張を嚆矢こうしとするものだが、今一度、考証する必要が生じている。
本来、武士と同心の身分は隔世の感があった。たとえ、長岡藩が小藩といえども、騎馬士(大組)に属する河井家が同心屋敷に居候したとは考えにくい。この点について、従来、疑問を持ちつつも、同心町生誕説を採っていたことを訂正する次第である。なお、長町そのものを生誕地とする先学の資料もないことも確かである。

(稲川明雄)