【稲川通信21】蒼龍窟の誕生

Published On: 2016年11月7日|Categories: 稲川通信|

文政十年(一八二七)一月一日の朝七ツ刻に河井継之助は越後長岡藩(七万四余千石・藩主牧野氏)の城下町に生まれた。干支でいえば、寅の月・寅の日・寅の時刻に誕生したことになる。偶然の一致とはいえ、多少の疑問が残る。

長岡藩士の河井家にとって、継之助の誕生は大いに期待するものがあった。その継之助がみずから蒼龍窟と号するのは、艱難辛苦を体験している雌伏時代の二十八、九歳のころである。誕生のとき、祖父母も両親も継之助が虎のような人物になるよう期待していたのだろう。ところが、継之助が後年、龍にこだわったのは、何か理由があってのことだ。
号を単に蒼龍としただけなら、それは屋敷にあった二本の松樹を模したのかも知れない。また、九代牧野忠精の龍徳院公にあやかって、その若い龍としたのも考えられる。そういえば、忠精公の描く雨龍の図は諧謔性に富むものだ。
ところが正しくは蒼龍窟と称する。それには継之助が己れに課した人生観がこめられていると思われる。
継之助は若いころ、禅を学んだという。『碧巌録』は愛読書だったらしい。龍の喉元にある玉をとれば英雄になれる話がある。あらゆる困難にうちかって、龍の玉を奪い取ろうとする壮大な己れの人生を模していたのではないだろうか。ただ、彼の人生には龍とともにあらわれる瑞雲がたなびかなかったきらいがある。

(稲川明雄)