【稲川通信19】母 貞の述懐

Published On: 2015年7月21日|Categories: 稲川通信|

母の貞は明治二十二年三月二十八日、八十五歳で没している。継之助が没してから二十二年近くも生きたことになる。

貞は勝気ながまん強い雪国の女性だった。生来、経才があったというが、その才能は子に引き継がれたのだろう。亡くなる半年前、郷土史家で新聞人の広井一が、貞に会っている。暗い一室に、凜として据っていたという。
その貞が一番つらい思いを語っている。それは戦時中、潜伏先の濁沢村阿弥陀寺で襲われて捕えられたことだった。住職の神田月泉の配慮も空しく、高田に護送されて半年間の禁固に会った。「唐丸籠に乗せられた思いは生涯忘れません」と語っている。妻のすがはその際、髪をおろしている。
その貞のところに、毎年、継之助の命日近づくと訪問する老人がいた。古志郡加津保村の元庄屋鈴木総之丞である。号を訥叟という。藩政時代、継之助に北組の割元を命ぜられ、郡政改革に一役を買った人物だ。当時、栖吉村の紛擾に困り果てた継之助は、あるとき仮病を使い、総之丞を病床に呼びよせた。そして息もたえだえに栖吉村の庄屋職就任を懇望する。総之丞はそれほどまで評価してくれると感激して、涙ながらに受け入れると「がばっと」継之助が起きて、喜んだというのである。その際、継之助は一番大切にしていた師の山田方谷の書を総之丞に渡している。継之助が戦争中、敗走の道を追求し、直接「北組割元職」の返上を申し出ている。律義な性格だった。
その総之丞に向って、母の貞が、
「世間様は、継之助がやったことを悪し様に申しまするが、本当にそうなのでしょうか」
と長岡弁でたずねたという。その際、総之丞は訥弁で、
「そうは申しても、いつかは継之助様の真意がわかるときがきましょう」
と答えたという。そして二人は遠く東の方を眺めて、無言の刻をすごしたとある。

(稲川明雄)