【稲川通信17】榎木峠と司馬遼太郎の碑

Published On: 2015年6月22日|Categories: 稲川通信|

長岡から南へ、小千谷に向かう途中に妙見堰がある。妙見堰は信濃川が魚沼の山間から、流れ出る隘路あいろに平成五年にできた。その堰に沿うように越の大橋が架けられ、その西詰に司馬遼太郎が河井継之助を謳った石碑がある。碑は信濃川をはさんで、対岸に聳える榎木峠、朝日山の古戦場が眺められる。

石碑の表には司馬遼太郎の代表作「峠」の一説が記されている。問題は碑裏の文章だ。『峠』のことと題する司馬遼太郎の河井継之助を視た眼が紹介されている。

越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは藩を、幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自の近代化の発想を実行者という点で、きわどいほどに先覚的だった。

ただこまったことは、時代の方が急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

かれらは、時の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって、屈従は倫理として出来ることではなかった。となればせっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという美的表現をとらざるを得なかったのである。

かれは商人や工人の感覚で藩の近代化を図ったが、最後は武士であることのみに終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道を選んだ。

『峠』という表題は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

平成五年十一月 司馬遼太郎

司馬遼太郎が腹部大動脈瘤破裂で亡くなったのは平成八年二月十二日。これより数年前小千谷市公民館館長の山本清さんが司馬先生に碑文を依頼すると心よく引きうけ、原稿を送ってきたという。但し書きに活字にして欲しいとあった。

(稲川明雄)