【稲川通信16】方谷の述懐
方谷の元にいたころの継之助は、三十三歳。たぶん、方谷門下で、もっとも知略に秀れた者のひとりであったろう。方谷はその継之助に期待したものがあった。
入門時、単刀直入に知性ではなく作用、つまり知謀を知りたいという継之助の人物に魅せられた方谷。その師弟は松山滞在中、あらゆる改革の手法について語り合ったと伝えられる。塵壺にはその模様は書かれていない。おそらく別冊にし、それは大切に保管していたが、何らかの事情で失ったかもしれない。
ただ、継之助には陽明学の神髄を知ろうという書生ではなく、その作用を知ろうとした気概、つまり志があった。その志を佳よしと方谷は改革の要諦を懇切に教えたという。
だから、方谷は継之助の生涯に不安を憶えその行く末を心配している。
臨終近い継之助が松屋吉兵衛という商人に「方谷先生の教えを最後まで守りましたと伝言してください」といったと聞き、方谷は一言も発しなかったという。また弟子の三島中州を通して、河井継之助の遺族を引き取りたいと申し出もしている。
八十歳近くなった方谷は、継之助の碑文を頼まれている。その際、方谷は「碑文いしぶみを書くもはずかし死に後れ」と固辞している。
多分傑作を創り出したと思っていた方谷が、継之助の死を知り、おのれの学問を重ね合わせたのだろう。
(稲川明雄)