【稲川通信15】容貌と性格

Published On: 2015年5月20日|Categories: 稲川通信|

明治十八年六月に出版された『北越名士伝』に「河井継之助ノ伝」が所収されている。恐らく、河井継之助伝記としては嚆矢であろう。この著述は松井広告がしたものだと、後年告白しているが、大橋佐平の筆になるものと今まで解釈されてきた。たとえ佐平が執筆していなくても、佐平が校閲したことには違いない。

『北越名士伝』では河井継之助の容貌をつぎのように記している。

君、性豪活、夙に俊邁の気あり。身駆甚だ低からず。肥瘠、其の中を得、黧くろく、眉秀で、眼光烔々として、人を射る。一喝いっかつ、睥視すれば、即ち人、仰ぎ見る能はず。言語清朗にして、最も弁舌に長ず、叱咤しった、席を打て弁するときは、議論風生、凛として犯す可らざるの威ありと云ふ。

松井は河井継之助とは会ったことがないので、佐平から聞いたものにちがいない。町奉行の時河井継之助は、町政をを弾劾し、町役人を処罰した。そのときの印象を大橋佐平が記したのであろう。

それにしても、悠久山公園に建つ「故長岡藩総督河井君碑」の明治二十三年八月の三島毅の印象と見比べると面白い。

君、大顱だいろ方面、眉秀でて眼凸、爛々たることの雷いかずち如し。或いは怒りて、眥まなじりを決すれば、人よく仰ぎ見るなし。天資、英敏明快、一見して人の肺肝を洞つらぬく。姦偽を排し、尊貴を避けず。忠良を愛し、賤賎を遺さず。自ら信ずること尤も厚く、死生を顧みず、毀誉きよを問わず、事は必成を期して、措置縝密しんみつ、克きく艱楚かんそに耐え、言論爽快、能く是非弁析し、一座屈服す。

大橋佐平の視た河井継之助の容貌と三島毅の感想がほとんと一致している。今、伝わっている彼の肖像写真は、校正されたものだという。柔和な顔立ちの三十三歳が、実際は目の鋭い怖そうな顔立ちであったとみると面白い。

(稲川明雄)