【稲川通信14】河井継之助の墓

Published On: 2015年5月11日|Categories: 稲川通信|

長岡市の東神田に光輝院栄凉寺という浄土宗の寺院がある。寺紋に藩主牧野氏の丸に三葉柏の御紋をいただく由緒正しい寺院である。歴代長岡藩士の墓所もあり、牧野氏の菩提所である。

その墓地の奥まったところに継之助の遺骨を収めた河井家の墓がある。墓石には「先祖累代之墓」と刻まれ、「秋恒建之」とある。秋恒は継之助の祖父である。河井継之助三代目の当主。その才覚は秀でており新潟町奉行などをしている。たぶん、秋恒が没するころの文政の頃に建てたものと思われるが、それはまた、河井継之助が生まれるころに相当する。

正面に向かって右側に温良院・忠良院・峰寿院の戒名が並ぶ。妻すが、河井継之助、母貞の順である。その他の二面に褁珠院(河井継之助初代代右衛門信堅)・宝真院(二代代右衛門秋高)・瑞麟院(三代代右衛門秋恒)・仙寿院(四代代右衛門秋紀)ほか計十一名の戒名が記されている。

河井継之助の遺骨が、会津若松の建福寺から栄凉寺に移葬されたのは、明治三年十月七日のことである。継之助の従者であった松蔵が会津を案内し、森源三らが携いて帰った。
松蔵の直話として、「我が旦那様の遺骨を棒持して、長岡に戻り、御母堂及び奥方様にこれを手交する。敏捷なりと賞してくださる」とある。

森源三は老公牧野忠恭の命によって河井継之助の遺族を扶養した藩士であった。あたかもその直後に長岡藩は廃藩した。
河井継之助の墓所は森源三の次男茂樹が河井家の養子となり、その子孫によって守られることとなった。

(稲川明雄)