【稲川通信12】臨終

Published On: 2015年4月14日|Categories: 稲川通信|

八十里越をしたのち、継之助の痛みは、益々激しくなった。「はじめより死ぬことは覚悟していたが、こんなに痛いとは覚悟していなかった」と弱音を吐いた。傷を受けた当初から、付添いの医師には碌に傷の手当をさせなかったことが、次第に傷を悪化させていったのである。それはもとより覚悟のうえだといっている。

左膝の傷は悪化して、ガス壊疽になったとある。そこに治療のため、駆けつけた医師松本良順は一目、継之助を見、傷を見て繃帯を巻き直して帰ったという。その際、「滋養をつけよ」と牛肉を置いていったが、それを焼いてうまそうに食べたというのである。

帰りがけに良順が「会津の壮士も君の来るのを待っているから」といったら、継之助は「会津も、もう化の皮剥げたかなあー」と笑って答えたというのである。己れの化の皮ではなくて会津の化の皮とは何んだろう。

良順が帰ってから「久しぶりで豪傑の顔をみた」といった。

その終い住家かとなったのが、矢沢宗篤宅。宗篤は幕末、医術修行を長岡城下神田二之町の佐藤寛斎のところで学んでいる。佐藤は五人扶持の藩医兼町医。当時、町奉行の改革が断行されていた。矢沢はその当事者が、来宅したことを終生、誇りにした。

八月十五日夜、継之助は従僕松蔵を枕へ呼び、「松蔵や永々厄介してくりやってありがたかったでや」と感謝の言葉をいう。

松蔵は夜を徹して棺を作り、ついで平型の納骨箱を二つ作った。翌朝、これを見て喜んだという。「梨が食べたい」といったのはこのときだろうか。しばらく普通のように談笑し昼寝をせんとて、人を避け、そのまま昏睡状態となり、八月十六日午後八時ごろ没した。

(稲川明雄)