【稲川通信10】負傷ののち城内へ
新町口で継之助が負傷すると、戸板に乗せて、長岡城内に運び、御引橋脇の土蔵のなかに入れた。二の丸隅櫓だという説もあるが、いずれにしても、城内・城外とも鉄砲玉が乱れ飛んでいたから、堅牢(けんろう)な土蔵造りが一番安全と考えた側近の者たちの才覚だった。そこで、顔面蒼白となっている継之助を介抱している。二十五日夕方には森立峠を守備していた長州藩振武隊が、長駈、城下に進入し、鉄砲をみだりに発射していて、土蔵にもブスブスとあたりはじめた。
「刀をよこせ、首だけは敵に渡さんでな」といい、大刀を胸の上に乗せ、敵が土蔵に進入してきたら斬り結ぶ意思を従者たちに伝えたという。
そのとき、継之助は杜甫の「韋左丞丈(いさじょうじょう)に贈り奉る」を吟じた。
がん袴(がんこ)餓死せず、儒官多く身を誤る
丈(じょう)人試みに静聴、賤子具(つぶ)さに陳(のぶ)るを請(こ)う
その五言絶句二十二韻を朗々と吟じた継之助を、従者だった外山脩造が、つぎのように述懐している。
「その吟声がいかにも朗々として、平常酒席などで興に乗じて、詩吟なさるときと少しも変っておらぬ」もののふは、平素から生死を度外視して戦いを専一にするというふうがあらわれていたと伝えている。翌日、城外に出て、四郎丸村の昌福寺へ移った。
(稲川明雄)