【稲川通信 7】 落城の日の森立峠

Published On: 2015年2月2日|Categories: 稲川通信|

従僕の大崎彦助は、長岡城落城の日、河井継之助と森立峠で邂逅している。そのとき、継之助の左肩には生々しい傷跡があったという。

慶應四年五月十九日早朝、西軍の長州藩奇兵隊はおりからの洪水で濁流となっている信濃川を強行渡河し、長岡城下になだれこんだ。続いて、薩摩藩外城隊・高田藩兵も続いた。不意を突かれた長岡藩兵は敗走する。

摂田屋村の本陣にいた河井継之助は城下の方での異常な事態を察知すると、ガトリング砲一門を率い、馬に乗り、城下に駆けつけている。渡里町口、内川橋で戦っている長岡藩兵に馬上から激励したのち、一旦、城内に退いた。城内に入ると藩主一行の安否をたずねたという。そのころはもう家老牧野頼母の裁量で、城東、悠久山方面に逃れていた。

継之助は大手口にガトリング砲を据え、みずから操作し近寄る西軍兵に発砲したというが、その際、左肩に弾丸があたり負傷した。継之助も城東悠久山に退き、そして森立峠へ逃れた。多くの長岡藩兵とその家族らがたどった落城の日の逃避の様子である。その森立峠から炎上する長岡城と城下町をみて、多くの兵士と家族が涙を流した。継之助は諸将を集め軍議し、今一度、峠を下って城を奪還しようとしたが、村松藩が裏切り、横撃を企てているという注進が入り、結局、避難を優先することになった。その際の継之助の様子を彦助は終生忘れなかった。「お前は農民の出。この戦さが敗けたとはいえ卑屈になるな。もとの農業に精を出せ」といったという。

(稲川明雄)