【稲川通信 6】 内川橋の戦い
五月十九日早朝、西軍の信濃川強行渡河により、長岡城が落城してしまう。この日の朝摂田屋の本陣にいた継之助は、俄かに起る激しい砲声と喚声に、一里の彼方にある長岡城下に異変いへんが生じたことを覚り、救援に赴くこととした。従うはわずかな兵とガトリング砲一門。ガトリング砲は馬に引かせた。みずからも馬に乗り疾駆した。
深い霧が城と城下を包んでいたが、あちこちに火の手があがっていた。逃げ惑う住民たちが右往左往していた。
西軍は長州藩の奇兵隊、高田藩兵と薩摩藩の外城隊だった。対するは長岡藩の約十個小隊。伊東道右衛門のように短槍を携え、鎧姿で立ち向かう長岡藩兵もいた。
継之助はまず渡里町口の戦いを視察し、ついで北上し内川橋の戦いの様子を観た。内川橋の対岸には兵学所があった。守る方には御蝋座稲荷社や寄場役所があった。低い土塁があり、そこを十五・六歳の少年兵が守っていた。河井継之助は二つの戦いの場を単身で視察し、支えられると判断し、城中に引きあげることにした。ところが内川橋北方の安善寺に宿陣していた村松藩が「敵の襲来だ」と判断し、長岡藩兵の背後を銃撃したのである。これには長岡藩兵も驚き、「村松藩が裏切った」と流言が流れ、ついに長岡藩兵の潰走につながっていく。
結局、この敗走が落城となり、継之助の無念となる。
(稲川明雄)