【稲川通信 5】 西軍本営を衝けず
五月十六日から始った西軍の長岡城下への砲撃。その初弾の弾痕だんこんが、御菓子「越乃雪」で有名な「大和屋」の土蔵に今も残っている。信濃川の西岸から飛来する砲弾に、住民は避難に右往左往したと記録にある。
長岡藩兵の主力は朝日山方面に展開していて、城下近くの信濃川右岸を守備する兵が少なかった。ただ、当時、洪水で川が暴漲しており、渡れない状態にあったから、ようやく守れたというのが事実である。
ところが十八日から、その砲撃が俄かに激しくなった。洪水のなか、強行渡河してくる気配が察知できた。事実、何艘そうかの舟が渡河を試み失敗している。これに河井継之助は危機を覚り、信濃川右岸の長岡陣地を巡視した。その際、継之助は「いま一日、耐守せよ。そうなれば我に一計あり。対岸の敵を撃破してみせる」と叫びまわったとある。
河井継之助は少勢の長岡藩兵が、広い、しかも二面作戦をどう有利に戦っていく勝算があった。
すなわち、地の利を生かし、水火の術を使い、少勢で敵の本営衝く作戦である。
五月十九日も西軍の大島本営と小千谷本営を、前島の渡しから信濃川を渡河し衝く作戦を実行しようとしていた。ところが、西軍の信濃川渡河の方が先に実施されてしまった。先手必勝をこころがけていた継之助にとって「無念」と「誤算」が、西軍の信濃川渡河作戦であった。
(稲川明雄)