【稲川通信 4】 朝日山の戦い
五月十一日午後二時、俄かに激しい雨が降り出した。それを機に長岡藩の槍隊や会津・桑名藩兵は、榎峠を一気に駆け降りて、朝日山へ登った。それを同時に山麓にいた長州藩奇兵隊を中心とする西軍兵も朝日山の登攀を開始した。ここに朝日山争奪戦がはじまったのだ。
朝日山は三国街道脇にそびえる平凡な山で土地の人は大開山(おおひらきやま)とか野辺山と呼んでいた。ところが戦争中、両軍兵士が激戦を重ねるうちに、朝日山というようになったとある。それは、朝日を山頂に仰ぎ、苦戦したのでそう名付けられたというのだった。もっとも朝日山の東の彼方に「朝日」という小村落もあった。
その朝日山にいちはやく大砲をあげ、陣地を構築したのは東軍であった。その指導は長岡藩の家老河井継之助であった。継之助は陣地構築には近くの農民を使わず寄場の人夫を使ったという。「陣地が巧くできたあかつきには放免にしてやるぞ」と励まして造りあげた。山頂の陣地構築を戦場での作業に、継之助の采配は際立っていた。
麓に陣地構築した西軍には砲弾が降りそそぐ結果となった。そこで五月十三日、長州藩参謀時山直八が指揮する長州藩兵が奪取をはかり攻撃するが、かえって時山が戦死する結果となった。長岡藩兵ら東軍側が朝日山の戦いを有利にすすめ、山県狂介(有朋)が、「仇守るとりでのかがり影ふけて、夏の身に沁む越の山風」と詠むほどの苦戦となった。
(稲川明雄)